南極観測船宗谷には、有名無名にかかわらず日本中の企業や団体から様々な寄付が寄せられました。
その中にとても縁起が良いとされる三毛猫のオスが航海の無事と隊員の癒しを願い、動物愛護協会のご婦人から贈られました。
子猫は南極観測隊員51名と乗組員67名、そして樺太犬22頭、カナリア2羽と共に東京晴海埠頭から1万人以上の大群衆に見送られ南極を目指し、宗谷の乗組員として出港しました。

1956年9月8日に生まれた子猫には出港時まだ名前がありませんでした。
宗谷船内で発行される手書きの南極新聞に子猫の名前が公募されましたが、なかなかいい名前が集まらなったそうです。
子猫には隊長の永田武氏の名前を取って「たけし(タケシ)」と名付けられました。

1957年1月24日、宗谷はプリンスハラルド海岸に接岸。
無事南極大陸に辿り着くことができました。
1月29日に南極大陸に公式上陸し、第一次南極観測隊が昭和基地を開設しました。
2月15日、日本に向け南極の地を離れる宗谷に守り神であるたけしの姿はありませんでした。
たけしは、越冬隊員の強い希望により昭和基地に残ることになったのです。

昭和基地で暮らすたけしは、研究対象ではなく隊員たちのペットでした。
でも、犬たちと同じに健康管理に気を配ってもらっていました。
定期的に行われた樺太犬の体重測定と同時に、たけしの体重も記録されていました。
生後半年の3月13日、たけしの体重は3.5kg。順調な成長ぶりが伺えます。
たけしが一番の仲良しになったのは作間隊員でした。
外出する作間隊員の後を付いて回るたけしの姿がよく見かけられたそうです。
夜寝るときのたけしは、いつも作間隊員の寝袋に潜り込み、彼のお腹の上で眠っていました。
作間隊員はお腹の上にずっとたけしの重みを感じながら眠ったそうです。

昭和基地での生活も10か月を迎えようとしていた1957年10月13日。
たけしは一度だけ死にかけたことがありました。
犬橇隊が出て行ったあと、暖をとろうと機械室に潜り込んでいたたけしは高圧線に触れてしまい感電してしまったのです。
バンッ!と大きな音がしたので隊員がすぐに気付いたそうですが、たけしは肩の毛が焼けて倒れていました。
必死の看病をする隊員たち。しかしたけしはずっと眠り続けていました。
数日後、作間隊員が外を歩いているときでした。
ふと振り返るといつものように後ろをついて来るたけしがいたそうです。

昭和基地の周辺はたけしの縄張りでもありました。
たけしは毎日のように縄張りをパトロールしていたようです。
たけしは南極で生まれた8匹の子犬たちのボスとして彼らを引き連れ先頭を切っていました。

昭和基地でのびのびと暮らして1年が過ぎ、日本へ旅立つ日が近づいていました。
第2次越冬隊のために、引き継がれることが決まっていた樺太犬たちに大きな名札が付けられ、宗谷の到着を待つだけになっていたのですが・・・。
周知のように悪天候のため、宗谷は接岸できず昭和基地の隊員たちはセスナで宗谷へ向かうよう命じられます。
厳格な重量制限のため、観測データと最小限の私物を持つことしかできない隊員たち。
作間隊員は迷わずたけしを抱き上げました。
第2次越冬隊を送り込むチャンスを狙い、待機し続けた宗谷でしたが、天候は回復せずそれは不可能だと分かりました。
隊員たちは、置き去りにした犬達のために泣きながら南極を離れるしかありませんでした。

宗谷で日本に向かうたけしは、隊員お手製の救命胴衣を着せてもらいました。
甲板でお腹を見せて寝転ぶたけし。
デッキチェアでお昼寝するたけし。
隊員たちが撮影した写真には、のんびりと日本への航海を楽しむたけしの姿が残されていました。

1958年4月28日。宗谷は日の出桟橋に帰港し第2次南極観測行動を終了しました。
帰国したたけしはずっと仲良しだった作間隊員の家族として一緒に暮らすことになりました。
ところが・・・
帰国して1週間後、たけしはふらりと家を出てそのまま行方が分からなくなってしまいました。

作間さんは、たけしは南極を探して旅に出たのだと信じて生きてきたそうです。
作間さんは自分が死んだら自分の魂も昭和基地に戻ると決めているので、その時にたけしとまた会えると信じているといいます。
たけしに会ったら、またしっかりと抱きしめてあげたいそうです。

たけしにとって、昭和基地は自分の縄張り。
たけしはパトロールをしに出かけたのかもしれませんね。

【参考資料:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E8%B0%B7_(%E8%88%B9) ウィキペディア「宗谷」・http://polaris.nipr.ac.jp/~archives/contents/takeshi.htm l国立極地研究所 アーカイブ室】